全国のみなさまから寄せられた、たばこにまつわる珠玉の思い出やエピソードの数々。
なつかしいパッケージやポスターとともに、あの頃の暮らしの記憶が蘇ります。
昭和の激動とぬくもり、そして平成、令和へと時代は移り変わりゆく中―。
ひとつひとつのエピソードに詰まった、それぞれの時代の空気感をお楽しみください。
エピソード・アーカイブへようこそ。あなたの眠っている記憶も、きっと呼び覚まされるはずです。
※年齢・エピソードは応募当時の内容をそのまま掲載しています。
昭和20年以前戦中から終戦へ。生涯決して忘れることのできない、激動の日々と戦争の記憶。
学生動員されていた昭和19年、航空機の部品製造に学徒動員にいき、事故発生。防空壕の中に入り、眠気を覚まし事故防止にするために、こっそり喫煙したことを思い出す。
瀕死の重傷を負った兵隊さんが、村医である家に担ぎ込まれてきました。苦しみながら死んでいきました。
父が大のタバコ好きでした。ゴールデンバット、これは確か戦時中に「金鵄」という名前に変わったと思います。「コールデンバットは英語で、日本語で言うと云々」と父に教えられた記憶があります。
特攻出撃の命下る。前夜は眠れなかったのだろう、学徒出陣以来の戦友は、真っ赤な目で微笑んだ。そして、感慨深げに誉(軍隊用のたばこ)を大きく一服,二服。朝の空に吸い込まれる紫煙を追いながら「貴様は死ぬな、俺の分まで生き抜け」−吸いかけを私に渡すと,振り向きもせず爆装の愛機へ。それが最期だった。
言葉もなく涙で見送った私は、後に続く機会に恵まれぬまま、どうやら戦後を生き抜いた。あの世で彼とマイルドセブンを吸い分けるのが夢だけれど、私には彼が判っても、彼は老醜の私を判ってくれるだろうか、心配でならぬ。
海軍通信学校を卒業して、和歌山の海軍基地由良へ着任した。そこは、戦務甲の基地でタバコの支給があった。「ほまれ」というタバコだった。1ヶ月に300本まとめて支給された。当時、私は17歳だったが、年齢に関係なく支給された。生まれて初めてタバコを吸った。初めてのときはむせんだりすると脅かされたが、実にうまかった。先輩や上官はびっくりしていた。「ほまれ」はどの程度のクラスのタバコかわからないが、とにかくうまかった。以来50数年吸っている。
鶴橋の闇市最盛期、今の心斎橋より雑踏していた。よれよれの軍服姿の復員兵や真っ白の白米を炊いて売るのを日本人は横目で見ていた。だって米は配給品で横流しする余裕はなかったもの。大きな釜から上がる湯気と真っ白なご飯今でも印象に残っている。
終戦の混乱の時代にたばこ好きの父と刻んだままで紙と一緒に配給されたたばこを誰が考えたか奇妙なたばこ巻き機?!(でもきれいに本物みたいに巻けたんですよ)でせっせとたばこを巻いた。太くすると本数が少なくなるから細く巻き紙がなくなると英語の辞書の紙を切って巻いた。暗い裸電球の下で、、そのたばこを切らすと終いには郷里の鹿児島から大きなたばこの葉を何枚か送ってもらって刻み(これが大作業)吸っていたが辛くてきついと顔をしかめていた。
当時たばこの葉の横流しは厳罰で米の闇よりうるさかったからスリルの喫煙である。そんな父も肺ガンにもならず心臓病でなくなった!でも病中たばこを無理に止めさせて頑固な父がじっと我慢していたのを想い出すと可哀想なことをしたと思う。駅のホームの上から長い竿の先に針を付けて吸い殻を拾っていた人をよく見かけた時代である。私は恐らく明治維新以後最も日本人がバイタリテーを発揮し生き抜いていた時代だったと今でも思う。
朝日新聞の特派員(と記憶しております)の奥様が姉妹で疎開して居り,当時田舎では食べた事がない洒落た料理など作って戴いたり,幼かった私は綺麗なベレー帽(お古ですが)など戴いた記憶があります。
エピソードと言えるかどうか分かりませんが,父が囲炉裏端でよく紙縒りを作り,キセルのらう掃除をしておりました。うっかりその場に居合わせた時は、最悪でした。囲炉裏の灰を綺麗にならし,火箸で漢字を書き読んでみよと。読めなかったときや,書き順を間違えたりした時には、何度も何度もやらされました。当時はそれが嫌で,父が囲炉裏に座っている時は,どんなに寒くても囲炉裏の前に座りませんでした。
今は当時の父の厳しさも有難く思え、またみのりというきざみ煙草のパッケージを懐かしく思い出します。
昭和20年代あの時代、貧しかったかもしれないけど、なつかしい想い出の数々はとても豊かな気がする。
小学校に上がる少し前、校長先生をしていた伯父の家に一人で初めて泊まりに行った時のことでした。駅から伯父の家へ歩いて行く道筋に「たばこ屋さん」がありまして、看板娘ではなくおばあさんが店番をしていました。長谷川町子さんの「意地悪ばあさん」にそっくりでしたっけ。
大きな看板にひらがなで「たばこ」と書いてあったのを見て、私が覚えたばかりのひらがなを、思わず立ち止まってたどたどしく「たばこ」と読むと、子供好きの伯父はニコニコして「良く読めたねぇ、小学生みたいだ!」と誉めてくれたのです。それが非常に思いがけなくて、嬉しいやら照れくさいやらで、もじもじしてしまった記憶が残っています。
テレビなど無い時代でしたから、子供も遊びも素朴でホンワカしていたのでしょう。伯父、叔母、可愛がっていたテリヤ犬のライトも今はおりませんけれど、子供の時分を考えると、不思議に決まって浮かんでくる懐かしい風景です。
当時、田舎では食べた事がない洒落た料理など作って戴いたり,幼かった私は綺麗なベレー帽(お古ですが)など戴いた記憶があります。
父が囲炉裏端でよく紙縒りを作り,キセルのらう掃除をしておりました。うっかりその場に居合わせた時は、最悪でした。囲炉裏の灰を綺麗にならし,火箸で漢字を書き読んでみよと。読めなかったときや,書き順を間違えたりした時には、何度も何度もやらされました。
当時はそれが嫌で,父が囲炉裏に座っている時は,どんなに寒くても囲炉裏の前に座りませんでした。今は当時の父の厳しさも有難く思え、またみのりというきざみ煙草のパッケージを懐かしく思い出します。
中学生の頃の想い出です。たばこ好きな親父が、蓬などの草でたばこの代用品にして苦労していた姿がいまだに眼にやきついています。親父は洋服箱にいっぱいにタバコの個包装やラベルなどを集めておりました。そしてそれを整理したり眺めながらの喫煙が何よりの楽しみのようでした。
子供ながらにいい顔してるなーと感じたものです。いまでは形見となった親父の”煙草盆”はいつも傍にあります。心休まるひと時を煙草に感謝しつつ・・・
食べるだけで必死の頃。
子供の時、親父の使いでよく「光」を買いに走ったものだ。タバコというと、今は亡き親父のそのことを思い出す。時にピースのこともあったが、香りの違いは子供にもよく感じとれた。懐かしい思い出だ。
昭和20年代。たばこが買えない男達は吸い殻を拾ってはばらし、刻みタバコみたいにキセルに詰めて吸っていたのを思い出します。悲しい時代でした。
昔タバコを吸っている父の膝の上にいるのが好きだったのですが、ふと父が目を話した隙に一回タバコをいたずら心で吸ってしまった記憶があります。苦くて苦くてとても苦しくて、側にあった「お水」を飲もうとコップからその透明な液体を喉に流し込んだら、それが実は「日本酒」だった・・・ということがあります。一日に大人の必需品を2つも経験してしまい、トホホでした(笑)
わたしが葉いじめてタバコを吸い始めたのは、大学に入ってから。御嶽山で、強力のアルバイトをしながら、仕事の合間に、地元の本物の強力さんたちに色々山を教えてもらう爽快な日常の憩いを味わう一時でした。
私の小さい頃、祖父と父はキセルにきざみたばこ(たぶん「ききょう」だったと思います)をつめて吸っていました。そのたばこを買いに行くのが3、4歳の私のおつかいでした。ある日タバコを買いに行った私がなかなか帰ってこないので祖父が心配で見に行ったところ、たばこ屋さんの隣の床屋さんでちょこんと座って髪を切ってもらっていたそうです。
「そろそろ床屋へつれていかんなんね。」と父と母が話しているのを聞いていたかららしいのです。たばこというと祖父から聞かされたこの話と結びついてしまって、あのきざみたばこの強いにおいとともに思い出します。いつしかきざみたばこから「いこい」に変わりました。
昭和30年代タバコの想い出は、大好きだった父親にどこかつながっていく。
長いキセルで、ヒイお婆ちゃんが桔梗をくゆらしていた、あの頃、桔梗のパッケージがおしゃれで着物の柄のようで「大人の女の人の煙草」って感じでした、刻み煙草独特の香りも懐かしいです、長いキセルと桔梗の似合うおばあちゃんでした。
父は私を自分の足の裏に載せて、高い高い〜と飛行機ごっこをしてくれました。そして、たばこをくるらせながら、飛行機雲や、ドーナッツの輪っかを作って・・・夢の飛行機に乗った気持ちは今もよく覚えています。
私は一人っ子で小さい時から父親にとてもかわいがられ幼いころの記憶はいつも父親の胡坐の中でした。一服する父とその煙を見ている小さい私。そんな光景が思い出されます。
25年前、私の祖父が亡くなった。その彼が旨そうに吸っていた煙草。確かタバコの名前は「桔梗」だったと思います。掌で火を消さずに次のきざみに火を移す芸当には驚いたものでした。その「桔梗」をいつもタバコ屋に買いに行くのが楽しみだった。なぜならば、おつりが駄賃として貰えるからだ。今思えば何と懐かしい思い出だろうか。
小学生野球小僧は熱狂した
酒やバクチを全く受けつけない無趣味の父は三度の飯よりタバコを愛飲していました。朝目覚めるとまずタバコを一服友人が来て座布団に座ると一服家の中ではタバコと大きな瀬戸物の灰皿がいつもお供でした。外では朱色のパッケージに光と書かれたタバコを野良仕事の合間に楽しんでいました。遠くを眺めながらもの静かに実にうまそうに煙をくゆらせる父の横顔は最高でした。成人した私ももちろん父を見習って愛煙家です。そして近頃気づきました。父はくわえタバコや歩きながらタバコやポイ捨てタバコ等一切しない立派な愛煙家だったのです。カタカナ程度しか書けない程の無学無教養な父ですがタバコに関してのマナーは昔から超一流人だったのです。
私は昭和27年生まれ、物心がついた頃の父の匂いはタバコのにおいでした。家族で夕食が終わったあと、いつも上手そうに煙をふかしている大きくて優しい父を見て、いつか自分も「いこい」を吸ってやろうと子供心にあこがれていました。父の愛用していた古い煙草盆は、今肩身として家長の私に引き継がれています。「いこい」から「マイルドセブン」に代わってはいますが、その香りは永遠に我が家の香りです。
名刺の電話取次ぎに、近くの「タバコ屋さん」の番号を付けていた友人が多かった。
風呂を炊きながら(薪が燃料の時代で常に風呂釜のそばにいることが必要であった)親に隠れてたばこを吸ったのがはじめてのことであった。
小高い山の上の畑出かける時、両親は目一杯の荷物で一足一足踏みしめるように登って行く中小さいながら手伝いしようとわずかな荷物を背負って一緒に出かけたとき途中の休み場所で荷物を背負ったまま腰を掛け、キセルでいっぷくして一休みしている父親の幸そうな横顔を見てなにがそんなにおいしいのだろうかと思いながらそんな一日が楽しい、遠足のような思い出として残っている。
父が仕事をしながら一服・・とっても美味しそうな・満足そうな顔をしてプーっとはく姿が今でも思い出します。たばこの銘柄は「いこい」今でもあるのかしら?
社会党浅沼委員長暗殺。
私が小さい時、父が美味しそうにタバコを吸っているのを見ていました。その当時父はキセルを使ってタバコを吸っていて、煙でドーナッツを作ってくれたりしていたのを思い出します。新聞紙を細くこよりにしてのキセル掃除はよく手伝いました。刻みたばこを紙に巻いて、紙の端を口で湿らしている姿も思い出します。そんな父のマネをしたくて小学校の時、父のいない時を見計らってその美味しそうなタバコを吸ってみたことがありました。しかしその時のむせかえり苦しかった事が思い出されます。この経験からその後一切タバコは口にしていません。その経験は昭和30年代でした。
天井がヤニだらけの暗く煙だらけの部屋の匂いが今になっては懐かしい昔の我が家。
昭和30年代のころですが、父のおつかいで、毎日たばこ屋さんへたばこを買いに行っていました。今みたいに自動販売機がなく、お店に買いに行きました。たばこ屋さんには、いろいろなたばこのにおいがまざった様な独特のにおいがあり、不思議なことに、いまでもそのにおいを思い出すことができます。また、こどものころから父が吸うタバコのにおいをかいでいたせいでしょうか、いこいやしんせいのにおいがまだ頭の中に残っています。ヘビースモーカーの父で、毎日三箱は吸っていたので、父の日のプレゼントは、いつも決まってたばこをプレゼントしました。その父も他界し、仏前には大好きなたばこをいつもお供えしています。私にとりまして、たばこのにおいは父のにおいです。
よく、祖母のタバコを買いにいかされました。両切りの「いこい」なんだか、祖母がおいしそうに吸っているのが印象的でした。なぜか今でも、「いこい」のパッケージは鮮明に覚えています。
親父の使いで缶ピーを週に一回くらい買いに行かされた。お駄賃は漫画本を一冊買ってもいいこと。
昔父がのんでいた「いこい」を思い出します。銀紙でよく、鶴を折りました。
まだ、テレビも番組が少なく、本が唯一のたのしみだつたころのことです。
私の両親ともたばこを吸っていました。父は「カンイリピ−ス」、母は「いこい」、よくたばこやさんへ買いに行かされました。たばこやサンには、当時、雑誌がおいてあり、買い物のついでに立ち読みしたのがとてもうれしく、買い物に行くのを楽しみにしていたことを懐かしく思い出されます。
また、父が缶を開けるときの独特なにおいが亡き父のすがたとともに、なつかしくおもいうかびます。
私が小さいころ、父が吸っていたタバコは「いこい」でした。そのころ私は、父の仕事の関係で、横須賀から長崎に引っ越したばかりでした。長崎は坂が多い町で、それまでの町並みとは大きく違っていました。ある日、父にタバコを買ってきてと頼まれ、なれない町でタバコ屋を探し、父がいつも吸っていたタバコを買って帰ると、父は、よくタバコの名前がわかったねといってほめてくれました。少し大人になったみたいでうれしかった思い出です。
幼かった私は、父のあぐらの上に座り、父がタバコの煙でつくる輪っかをつかむ?のが大好きだった。父が帰宅するとすぐ、父がお休みだとすぐ輪っかをねだったものだった。私にとってそれは父が作る不思議な魔法の輪。そんな父とも私が思春期になると口をきく機会もなくなった。そしてねだっていたタバコも煙たがる様になったのに、私が受験の時にはこっそり禁煙して願をかけていた。あんなに好きなタバコなのに。そしてあれから30年私の子供が主人の煙を追いかけている。
子供のころ、父親がたばこを吸っていると「まるいワッカを出して」とよくせがんだ。父はおいしそうにたばこを吸ってほっぺたをたたき、きれいな煙の輪を出してくれた。
新婚時代、女房が私のズボンのなかに入っていたたばこを洗濯機に入れまわした。ズボンの中身を確認しなかった私が悪いのだが、なぜかものすごく腹が立って、女房を叱ってしまい大喧嘩になった。それが、初めての夫婦喧嘩だった。今でもその光景ははっきりと覚えている。女房は多分そんなこともあったかしらと思っているかもわからないが・・・・それかは、この事件があったおかげで、洗濯前の衣類の確認はお互いに気をつけている!
私の実家がたばこ屋で、毎日両切りのピース(40円)を買う人がいました。その人は呉服屋さんで「これは最初の一服がおいしい」と言って2、3服吸ったら残りは丁重に消していました。もったいないなーと子供心に思ってましたが、その吸殻は人にやるんだそうです。いこいが50円、しんせい40円、20本入りでですからね。その時からピースは高級品だったんです。
うちの大叔父さんが、刻みタバコをいつもうまそうにすっていたのを思い出す。私の記憶では、この頃は、もう紙巻タバコが主流であったが、大工の棟梁であった大叔父は、仕事の合間、煙草入れからキセルと刻みたばこをとりだし、いかにも、一服という感じで、うまそうに吸っていたのを思い出す。半纏姿に合ういなせな瞬間であった。
大好きな祖父の膝の上に座ると必ず「今日は上手く出来るかな。」と言って煙草(あの当時はキセルの中に詰めて火をつけていたように記憶していますが)に火をつけ、気持ちよさそうに煙を吐きます。その時に、丸い輪が一つできると明日は一つ、2つできると2つ、3つできると3ついい事が有るといわれ信じていました。確かにいい事があったような毎日が楽しかったように思います。そんな祖父が亡くなった後、父が真似をして作ってくれていましたが、祖父のようには行かなかった事を覚えています。そんな祖父は私達姉妹4人には大変優しい祖父でしたが、校長先生で近所では有名な頑固爺でした。
近所のタバコ屋のお家に、トラックが突っ込んでタバコ屋の店舗部分がほぼ全壊しました。当時よくタバコを買いにやらされていた幼稚園児の私は、瓦礫と化したお店を見て震えてしまいました。いつもお使いに行く私に飴などをくれるおばさんが、瓦礫の下敷きになってしまったからです。幸いおばさんはご無事で、現在もご健在です。(笑)
わたしが子供のころ、実家がタバコ屋を営んでいて、中学校から帰ったらよく店番をさせられました。つまりかんばんむすめ?だったんです。ある時、勉強をしながら店番をしていたら何か胸騒ぎがして、いつもは10時まで開けている店を早くに閉めました。すると居眠り運転のダンプが飛びこんできました。幸いなことに奥にいた私は無事でした。家は傾きましたけど・・・・・・・・。わたしはたばこを吸いませんが父親がピーカンを開封したときの匂いが好きでした。
父親の指に染み付いた匂いを思い出す。
周りの家では、タバコ栽培が盛んで、タバコのピンクのきれいな花が忘れられません。もう、40年位前の話です。
私がまだ小さい頃父が会社から帰るとあぐらの上に私を座らせて一服する、その日会った事などを話しながら、チョッとひげの伸びたチクチクと痛いほお擦りが楽しみでした。それを見ていた母は、タバコの火に気をつけてよ、火傷したらどうするのといったものです。父の日にタバコをプレゼントしたくて父に小遣いをねだり、赤いリボンをつけて贈った事父の嬉しそうな顔がを見て得意になったことを覚えています。
自分が幼い頃、曾祖母が長いきせるできざみタバコを吸っていました。それがとても優雅でモダンにも見え、自分も真似をしてきせるをくわえた所を写真に取られ今も残っています。その写真は両親も気に入っており、子供の写真コンクールに応募したらしいのですが、当然没になり参加賞を頂きました。
今ではきせるでタバコを吸う人は見かけなくなりましたが、一本だけ残ったきせるは曾祖母の思い出と共にたばこの優雅さを教えてくれた宝物です。
学生時代は、ヨットと麻雀に明け暮れた。そして、「いこい」をプカプカ吹かして、いつも手の指が黄色だった。
私が幼稚園の時、4歳年上の兄が町の発明展でマッチのいらないたばこで賞をもらいました。単にマッチ棒をたばこに差し込んでいるだけで、少しマッチの頭が出でおり、擦って火が点くというしろもの。単純明快なものでしたが、実用性というと、火薬の臭いで吸えたものではなかった。
父が「いこい」をよく吸っており小さい頃は、煙たい思いがありました。
対面販売のお店ではまだ売っていましたが、自動販売機ではあまり売れなかったのか父が買おうとしてもなかなか置いていなかったことをおぼえています。たばこを買ってきてくれと、お使いを頼まれたのでたばこ屋さんにいったら、たくさんあるのに「売り切れ」といってうってくれませんでした。
今、思えば子どもが吸うと思ったのでしょうね。
おやじはいつも家に居なかった!、家族の元に返ってくるのは月に二度ばかり、仕事で全国を飛び回っていたからだ!夜更け頃、帰宅した「おやじ」は真っ先に眠っている僕たちの顔を見にやって来る!眠い意識の中、幼い僕はタバコの臭いで「おやじ」が帰ったことを知った。・・・とてもいい臭いだった。
亡くなった母親がいつもホープを吸っていてホープの矢はどこに飛んでいくかと、私にクイズをだして答えはエチオピアだと笑っていっていた。
今は亡き明治生まれの祖母がキセルでタバコを吸い終わると灰皿にポンと灰を叩き落とし、空のキセルをフッと吹くと白い煙が出るのが面白く、隠れて吸って見たけど蒸気機関車の煙のようにはなかなか出なく、四苦八苦しているの見つかって大目玉を食らったことがありました。思えば私のはじめてのタバコとの出会いでした。
高校2年の時、東京オリンピツクの聖火ランナーに選ばれ毎日の練習終わると私の部屋に集まり反省会?そのときタバコ吸ってるの母親に見つかり怒られるかと思ったが、次の日帰ると部屋に灰皿が置いてあった。
たばこをのみはじめたのは、昭和36年、東京で大学生活をおくるようになった後で、酒を本格的に飲みはじめた頃と一致する。その頃、確か一番高かったと記憶する「富士」を常用しており、時々マルボーロやゲルべゾルデをのんでいた覚えがある。特に朝目覚めたときベッドの中でのむ一本のたばこが断然うまく、一辺に眼がさめた気がした。
大学4年のときは、日本中がオリンピックに湧き、特に東京は、関連施設や環状・放射道路の建設が行われ、今から思う異常な熱気に包まれていた。この雰囲気の中で、東京64という白い箱の真中に日の丸が描かれた20本入りのタバコが売り出され、これをのむと何か自分もオリンピックに協力しているような気になるのとニコチン分の少なく軽いタバコであったことが好みにあったため、以後はこれ一辺倒で過ごした。
このタバコは、私の青春時代の様々な思い出と重なりあっており、その後色々なタバコを嗜んだが、この銘柄ほど記憶が鮮明で、甘酸っぱい思いのするものはなく、まさに「我が青春の象徴」として、決して煙とともに消えるものではない。
鶴田浩二が映画のシーンでピー缶を持ち歩き、ピー缶の蓋を閉めてタバコをトントンと中身を詰めてから吸っていたのを見てその影響を受けてピー缶を持ち歩いていたのを思い出します。
母方の祖父は宮大工でした。夏休みに帰省した時、3時のおやつをお弟子さん達に持って行ったとき、祖父はピースの缶からキセルにタバコをつめくゆらしていました。今で言うヘビースモーカーですが仕事をしながら吸うことはありませんでした。お酒が飲めない祖父でしたのでタバコの臭いだけしかしませんでした。でも家ではあまり吸っていた記憶はありません。きっと仕事休憩の一服が楽しみだったのだと思います。
昭和40年代うれし恥ずかし、たばこの味と青春の思い出。
実家は昔からタバコ屋をやっています。たばこは小さい頃からのつきあいがある感じがします。いこいのポスターなんかは昔の友達に会ったような感じがすます。小学生の頃から店ばんをしていたので、当時同級生より銘柄には詳しかったのを記憶しています。やはりたばこの歴史は時代の歴史でもあると思います。
しかし、今は銘柄ばかり増えてしまって、なんか昔に比べるとたばこの価値感が無くなってしまっているように思う。
昔のように「いこい」、「ひびき」、「しんせい」と言っていた頃が一番時代的に良かったように思います。
私の父は、友人と一緒に自営業をしていました。その関係で月の大半を出張しており、なかなか合うことが出来ませんでした。父が帰ってくる日には母が、ビールとハイライトを近所の酒屋で買ってきていたのでそれを見ると子供ながらに父の帰宅が近いことを知りわくわくしたものです。
高度成長期で、東京はどこもかしこも工事だらけでした。20歳の誕生日に、友達がプレゼントしてくれたハイライトが私の煙草初体験でした。当時煙草を吸うしぐさはファッションで、格好良い吸い方を鏡の前で研究したものです。その後ハイライト一筋に30年、50歳で禁煙しましたが、青春と共にあったハイライトです。
私がまだ、ひとりでトイレに行けない頃なので3歳くらいだったと思うのですが、私の祖父はタバコが好きで「しんせい」を毎日吸っていました。手の爪はおそらくタバコで黄色くなっていたんだと思います。 その日は祖父にトイレに連れて行ってもらい、和式便所(ボットン便所なので気をつけないと落ちてしまう)で足を抱えてもらっていました。タバコ好きな祖父はタバコを手にはさんで私を抱えていたので、タバコの灰が腿に落ちてやけどしてしまいました。私が突然泣き出したので、わけが分からなかったんでしょうね。気が付いて灰を手で払うまで10秒くらい腿に灰がのっていたでしょうか、今でも私の左の腿には直径8mmくらいの丸い火傷の跡があります。今はもう亡くなってしまったけれど、その傷をみるとあの頃の記憶が鮮明によみがえってきます。
東京に高層ビル一号の霞ヶ丘ビルができ私も新規業務応援のため同ビルに通勤することになりました。当時は橙色の袋入りのいこいを吸っていました。 通気が始まって1ケ月くらい経った頃上司から 「霞ヶ関ビルで仕事をするやつはいこいは似合わない。せめてハイライトを吸え」といわれ渋々高いタバコを吸う羽目になってしまいました。 仕事場とタバコは関係なさそうですが良く見ていると確かにいこい党はいませんでした。 私が28歳頃と記憶しています。
今は亡き父のごつごつした手を思い出します。いつでもたばこのにおいが染み付いていました。今時の父親とは違い、親子の距離があったように思います。あまりべたべたした覚えはなく、ほんの幼い頃につないだ父の手のぬくもりがたばこのにおいと共によみがえります。
30年も前のこと、今では想像もできないことですが、当時の場末の映画館では「禁煙」の表示はあっても、皆おかまいなしに煙草を吸っていました。映写機からの光の帯に煙草の煙が物悲しく掛かっていたのを思い出します。
不規則な仕事をめずらしく早く終えた父が、帰ってきてウイスキーを飲みながら、母と話をしていた。走りよってきた私をひざの上に座らせ、ピースの缶のふたを開けた。どことなく良い香りが漂って、私の頭をよけるように横を向いて火をつけた。まだ、母と話を続けている。煙たいけれど、父のにおいがした。懐とにおいが父の大きさを思いださせる。母との話は私の将来のことだったのだろうか。その後すぐ、父は他界してしまった。あの匂いとけむりは、私を当時に連れて行ってくれるタイムマシンかも知れない。
小学生のころ、親父と一緒に畑へいった。親父は耕運機を動かしつつ手が離せないので『少ししたらタバコをつけてもってこい。』と私に言った。言いつけられたことをきちんとやらねばと5分毎にたばこを点けて持っていったら『そんなにもってきたらけつからヤニでるじゃねえか』と怒られた。でもくわえタバコした親父はかっこ良かった。
エピソードと「捕らえるべきか、どじと考えるべきか」昔の煙草の巻きは弱かった。彼女と初めてデイトと言うか映画を見に行った時に「気障に咥え煙草」をして見ていると途中に火のついた灰が彼女の「スーツ」かな?に落ちてしまい、こんがりと「穴」があいた。それからの、二人の気まずい会話と時間。本当に「あいた穴」に入りたかった。そんな、懐かしい時も有った。
私は童顔ゆえ、二十歳過ぎにタバコを吸い始めたのですが、よく注意された覚えがあります。
学生時代、発掘現場での(私、考古学をやってます)疲れた時の一服がたまらなく好きでした。当時は、ショートピース党で発火具はマッチの軸木だけ派(軸木からたばこに火をつけると、たばこの香りが殺されない)という徹底ぶりだったのが懐かしい想いでと、言えましょうか。
大阪にいたころ、昔おじいちゃんによくお駄賃をあげるからと、坂ノ下のタバコ屋さんに確か紺色のパッケージのピースを買いに行った。昔の赤い筒状のポストのあるタバコ屋でガラスの引き戸の窓口でおばさんから大抵2箱づつ買った。買って帰るとおじいちゃんは縁側でゆっくりタバコを吸い始めてその煙で、当時漫画で流行ってた、ポパイの輪を作って!とせがんだりした事が懐かしい。
目が見えなかったのに,キセルのたばこをおいしそうに吸っていたひいおじいさん。毎日,店番で,お客さんとお茶を飲み,たばこを吸っていたことが,思い出される。曾孫が帰るときには,必ず,百円札をくれて,何かおいしいものでも買いなさい,と言ってくれた。そのお金は決して手を着けることはなかった。
私が子供の頃、祖父が煙のわっかを作って吹いてくれました。捕まえても捕まえて消えてしまい、幼い私にはとても不思議でした。そんな祖父も今年は83歳段々と年をとり、耳も遠くなってきました、まだまだ、元気です。いつまでも元気でいて欲しいと思います。
おばあちゃんがホープのタバコのケースで傘を作っていた.爪楊枝とで・・・あれもすごく昭和を感じますね・・・
たばこの最も古い記憶は親父の吸うわかばだ。私をひざの上に乗せ、タオルを鉢巻代わりにした親父がすってるわかば。ステテコに雪駄。なのにライターはダンヒルだったなぁ。
祖母の家がタバコやでした。子供のころからいつもカラフルなタバコに包装された箱を並べるのを手伝いました。ケ−スのなかの煙になる前のタバコの香りがおばあちゃんのにおいといった思い出があります。
「たばこ」の思い出といえば、小学生の頃に、お父さんへの誕生日プレゼントでした。今は有るのか無いのか知りませんが、「チェリー」という銘柄を二つ。それを白い紙で包んで、イラストを描いてプレゼントしました。
敬老の日に祖父に一箱買って自分で包んであげた。たしか、しんせいだったと思うが・・・私が小学校1・2年生の頃だと思うが、自分のおこずかいで買えたので、記憶にのこっている。
自分が生まれ育った土地では近所の多くの農家がたばこの葉を栽培していました。小学生だった私も、たばこが青々としげった畑の間の道をぬけて学校へ通いました。のどかでなつかしい風景です。
私の家はだれもたばこを吸わないのですが、小学校時代は家に電話が無く、母親が実家に連絡をする時には一緒につれられて角のたばこ屋まで出かけていった思い出があります。たばこと聞くとその時代を思い出します。
しんせいやいこいは、フイルム包装ではありませんでしたね。父のお使いでよく買いに行った時の、あの手にした感触、今でもあります。たばこ屋さんの小窓の前に立つと、もうなにも言わなくても、たばこ屋のおばちゃんはいつものを出してくれました。あの頃、二つ下の妹の将来の夢は、たばこ屋さんになることでした。
好きな人と同じ銘柄を吸いたくて、ハイライトにしていた。浪人生だった彼が、ハイライトを吸っていたのは、(志望校に)入りてえ:ハイライトっていう、くだらないごろ合せのためだった。
初めて吸った時の息が詰まるほど咳き込み、もう二度と吸わないと誓いながらまた吸った粋がっていた頃が懐かしい。
私がまだ小さい頃、父に、タバコの煙でわっかを作ってもらうのが好きでした。母は、タバコの煙やにおいが嫌いだったみたいで、子供のそばでタバコを吸う父にいつも文句を言っていましたが、私は、ひざの上に向かい合わせに座って、浮かんでいくわっかを見ながら嗅ぐタバコのにおいが好きな、へんな子供でした。父は船員で、1年間のうち10ヶ月は家にいない人だったので、あまり遊んでもらった記憶はないのですが、タバコのわっか作りはとても印象に残っています。
実家がタバコ屋だったせいか高校生のころ看板娘でとおっていました。そんな時同級生の男子がよく買いに来てくれたことがとても懐かしい。
缶ピースをトントンしてペッペ、ペッペして、のどにグッとくる。わかるかなぁー!今でも、両切りのピースを吸うとのどにグッとくるのかなぁー。
もうすぐ父の日ですが、私が一番最初にプレゼントしたのは「たばこ」でした。確か、当時愛煙家の父がよく吸っていた「ハイライト」だったと思います。おこづかいをはたいて買ったのですが、とても厳格だった父の嬉しそうな笑顔が印象的だった出来事でした。私のとても大切な思い出の一こまです。
私が中学生の時です。当時家は商売をしていて資金繰りが苦しくなってきたのが子供心にもわかってきたころです。両親の仲も険悪で、家庭はいつこわれてもおかしくないとまで考えた(子供心に)毎日でした。どうやったら両親が仲良くなるだろうか。以前のように笑って暮らせるだろうか。私にできることはできるだけ明るくふるまうこと、毎日父親に思いっきりの笑顔で、「行ってきまーす。」と声を掛け学校に出かけました。いつも玄関の外でたばこをすっている父が、一瞬笑って「ああ、気をつけてな。」と言ってくれるのが、唯一の喜びでした。その後倒産し、両親と長いこと離れ離れで暮らす。という年月を得て、貧しくも家族が笑顔で暮らせる日々がもどりました。父はいつの日かたばこをやめていました。子供が独立して両親とも定年し、やっとゆっくり暮らし始めた矢先、あの阪神大震災で、父は亡くなりました。兄が棺に入れたのは、たばこでした。なぜ父がたばこをやめたのか、私にはわかりません。でも父はきっと死ぬまでたばこが好きだったのだろうと思います。
小学生の頃、父親の運転する車に乗るのが嫌だった。というのも、私は乗り物酔いをよくしてしまい、その原因が父親の荒いハンドルさばきと運転中にふかすタバコの煙にあると思っていたからである。しかしながら、車を運転しながらタバコをふかす父の横顔は、仕事をしている時とは別の違った顔をしていて、乗り物酔いに苦しみながらも妙に『大目に見てやるか』という気になった。父親の運転する車に乗るのは嫌だったが、それでも『乗車拒否』をしなかったのはそんな「いつもと違う父親の横顔」を見せてくれる『タバコ』の不思議にとりつかれたせいだったかもしれない。
小学生のころ、父のお使いで朝学校に行く前などよくたばこを買いに行かせられました。そのころ父はしんせいをすっていたと思います。怖い父親だったので、泣く泣く自転車で買いに行ったのを思い出します。たばこがあれほど好きだった父は一年ほど前、風邪をひいてからすわなくなったと聞きましたが、私の父の姿はいつもたばこをふかしながら仕事している父でした。やはり歳をとったのだと感じました。たばこと一緒に仕事をしているような父でしたが、いつまでも健康でいてほしいです。
祖父は石工で「しんせい」という銘柄を吸っていました。私が小学3年生の頃でしょうか、「じいちゃん、僕にも吸わせて」と言った私への祖父の反応は予想に反したものでした。「ほら、吸ってみろ!」私はむせかえりました。祖父曰く「一人前になったら、うまかとたい。」子どもながらに祖父が大きく見えたことを思い出します。
JTがまだ専売公社時代のころ、確かロゴマークが変わって、包装フィルムに新ロゴマークのシールが貼られていたことがあったと思います。小さい頃、父親や親戚のおじさん達のタバコから、そのシールをもらって、はがして集めていた記憶があります。確か白地にオレンジ色のシールだったように思います。今となっては集めて何かもらえる訳でもないのになぜ集めてたんだろうと不思議に思いますが、当時はシール集めに興味深々だったのでしょう。なつかしい思い出です。
こどものころ大阪駅で電車から降りてくる人が持っていたたばこの火が、よく手などに当たりました。最近は電車が禁煙になってこともあって、あまり見かけなくなりました。
幼い頃、父が煙草のけむりで輪を次から次へと作りました。その中に指をいれて、つぶしていくのですが、姉と競い合ってやったのを覚えています。小さな輪から大きな輪まで色々作ってくれました。口の中からポッポと出てくるのが面白かったです。
子供ころに父親にお駄賃貰ってよくタバコを買いに行きました。今は販売機がほとんどですが、昔はおばさんやおじさんが店先にいてお駄賃でお菓子を買うとおまけをくれたりしてコミュニケーションがありましたね。
幼い頃父と別れたので顔すらよく覚えていない中で、よく父がポイ捨ての吸殻を拾っていたのを思い出します。当時親交のあった外国の方からの受け売りらしいですが、「煙草は大人の楽しみだけど、こうしてポイポイ無責任に捨てるのは大人のすることじゃないな」ポイ捨てが問題にもならない時代でしたから、拾う父の姿を恥ずかしいと思った記憶もあります。
小、中学生を田舎で過ごし、こころに残る思い出といえば家庭訪問です。その頃田舎では家庭訪問の時に担任の先生にこれからお世話になりますというご挨拶のお品を差し上げていましたが、私の担任は男の先生でたばこを吸っておりました。先生に直接何をお吸いになっているのかをたずねるわけにもいかないので、教室や職員室で先生が吸っておられるたばこの銘柄を調査する役目が私に与えられておりました。銘柄は忘れてしまいましたが、確か赤いパッケージだったと記憶しております。そうして家庭訪問ではその調査したタバコを差し上げ、先生が学校でその銘柄のタバコをお吸いになっているところをみかけると、「ああ、あれはうちで差し上げたものだな」とうれしくなりました。
私がまだ幼いころ、父=たばこ、そんなイメージだけ残っています。こんな煙たいものの何が美味しいのか?それだけが不思議でなりませんでした。昔は気難しくて頑固だった父。そんな父も娘の私には とても優しくて よく抱っこをしてくれたものです。そのシャツのタバコのにおいが今はとても懐かしい。たまに、くわえタバコで私を抱き上げた父。私はニコニコしていたけど煙たいのなんのってホントは迷惑してたんだよ(笑)
いやだった思い出ですけど…アイスクリームを買ってもらって“さぁ食べよう”と思ったら、隣に座っていたおじさんがタバコを吸っていてその灰がヒラヒラと私のアイスクリームについてしまいました。すごく神経質なその頃の私はすっかり食べる気を失ってしまって捨ててしまいました。
私の親父は70歳を過ぎた今でも1日に2箱はタバコを吸うヘビースモーカーです。しかもその銘柄は、今では、なじみのタバコ屋さんにカートンで注文しないと買うこともできない「しんせい」です。私が子供だったころ、当時キックボクシングが大人気で、沢村栄治をモデルにした「キックの鬼」というアニメが放映されたりもしました。ある日の夕食の時間、いつものように夜7時からキックボクシングの中継があり、家族で食卓を囲んでいました。私たちがテレビを見ていて食事が進まないとよく親父から怒られていましたが、その日は、白熱するキックボクシングを見て、親父の箸が進んでいませんでした。いつも怒られている私は、ここぞとばかりに親父を注意したところ、あせった親父は、吸っていたタバコの灰を晩酌のビールの中に落としてしまいました。それだけでも私はびっくりしたのに、親父は、「これがうまいんじゃ!」といって、そのままビールを飲んでしまいました。子供心にとてもびっくりした昔の思い出です。
大学生の頃、文学少女気取りでいた私。お酒を飲みながら好きな作家のことを話すときには、メンソールをふかすのが常でした。スターのたばこを吸うポーズを真似ては、下宿で一人こっそり研究したものです。
私がたばこを喫いはじめたのは、中学生の時だった。コナンドイルの「シャーロックホームズ」のによくホームズが「タバコ」を喫うシーンが出てきた。私はどうしてもその状況を再現したくてタバコを喫い始めたのだが、後でホームズが喫っていたのは「タバコ」だはなく麻薬だと知り、少々ショックをうけたが、それ以来、タバコを手放せなくなってしまった。ホームズが「タバコ?」を喫うのは、事件が迷宮に入りそうなときに神経を集中させて、考えるときで、私も紙巻だけでなく、イメージのパイプまで購入をした。どうしてもパイプは深く吸ってしまうためか体質にあわず、今も紙巻だけである。日本が強いとき、男たちが輝いていた。そんな男たちは、いつもタバコを喫っていたように思う。いま、不況のどん底であえいでいるが、禁煙権などとさわがしく、喫煙者は肩身の狭い思いをしている。もう一度、強い日本になりたいものだ。
学生時代タバコはもっぱらパチンコの景品で取っていました。兄と同じ銘柄をすっていて、兄貴のストックを失敬したこともあります。兄貴のがパチンコの腕は3枚も4枚も上でしたから。
主人との結婚が決まって、姉より先にしかも愛知から群馬へ嫁ぐ私に父はあまり賛成していなかったが、家に挨拶しに来た時父と主人のタバコの銘柄がたまたま同じであんなに嫌がっていた父が主人とタバコでについて語りあっていた。もちろん今、主人と父はすごく仲良しです。
山に登っていた頃、何時間もの苦しい登を登り切って山頂に立ったときの一服。登り切った充実感を味わうときに、タバコはなくてはならないものでした。特に岩登りの後稜線に立ったときなどは生きている実感を味合わせてくれましたよ。
私の父は、船乗りをしてました。半年に1回戻ってくればいい方でしたが、父が帰ってきた時ひざの上に座ると、プーンとタバコの匂いがして「あぁ〜お父さんの匂いだ。」と安心した覚えがあります。
祖母がたばこ店を営んでいたので、よくたばこの空き箱を使って作った傘のおきもの(?)を作ってくれました。いつか作り方を習いたいなあといつも思っていましたが、不器用なせいか、結局作り方を覚えることはできませんでした。祖母はなくなりましたが、たばこを見ると祖母のことをよく思い出します。
今は禁煙している父も昔は愛煙家でした。私が小さいころ(昭和40年代)は自販機もなくよくお駄賃をもらうためにタバコを買いに行っていました。父のお気に入りは当時チェリーとハイライトでした。今でもチェリーの赤い箱はよく覚えています。懐かしい思い出です。父も体をこわしてからタバコをやめてしまいましたが、かわりに、というか今は私が吸っています。将来私に子どもができたら、今度は自分の息子に買いに行かせようかと思います。
父は私が小さな頃からヘビースモーカーだった。小さな頃は、たばこのあの独特の匂いが嫌だったが、それは父の匂いでもあり、父との思い出でもある。私は両親におもちゃを買ってもらった記憶がほとんどない。そのかわり、父はよくたばこで私と遊んでくれた。口をとがらせ、ほっぺたを軽くたたき、たばこの煙で「輪っか」を作ったり、私の頭に煙を吹きかけ、「頭が火事だ!」と言っておどかしたり・・・。今思うと、それは不器用な父の精一杯のスキンシップだったのかもしれない。現在、70歳を越えた父は相変わらずたばこをふかしている。そして、私の2歳の娘にも同じようにたばこであそんでくれている。歳をとり、体のあちこちが痛い、と愚痴を言いながらも、娘と遊んでいる父は私と遊んでいたときより楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。
夕食に毎日大瓶ビ−ルを1本飲む父。飲み終わると煙草の煙をその瓶の中に入れてくれます。指をずらしてすこしずつ煙を出すのが私の楽しみでした。
昔、父のお使いで、よく近所のタバコ屋さんにタバコを買いに行ってました。そこのおばあちゃんと話せるのが楽しかったんですよ。今はタバコは販売機ばかり。タバコ屋さんってもう身近じゃないのが、さびしいです。
街中で祖父は、右手の親指と人差し指でタバコをつまみ、火のついた先を手のひらで包むようにして歩いていた。聞くと、こうすればうっかり人様に火傷をさせないですむ、とのこと。その祖父がお浄土に旅立って15年、同じようにタバコを持つ人を見ると、厳格だが優しかった祖父を思い出す。
私は、バレンタインのプレゼントにネクタイを彼氏にプレゼントしました。ある日デートの時にプレゼントしたネクタイをして来てくれたので私は、ほんのちょっとうれしかたです。それがその日は彼氏も気持ちよくなったのか・・すこし酔ってしまいました。その勢いか?私のプレゼントしたネクタイにたばこの火が付いてしまいネクタイが、焼けてしましました。「それはないでしょ!!」と思いました。私は、少し腹がたたけどそんな事があってもその彼氏は私の大事な主人になりました。今ではそれが弱みで何かあった時にはその話をひっぱりだしてきます。主人ちょっと辛そうですね・・
物心ついたときから母子家庭だったのですが、だれもタバコを吸わない家なのに灰皿やタバコの柄の傘立てなんかがあって、前には「お父さん」という人が居たんだな。と、たばこを見るとその空間を思い出しますね。
小さい頃、父がタバコをすっていました。週末、出かけるときの父の私服の胸ポケットにマイルドセブンが入っていました。お手伝いのつもりでパツケージのビニールをはがしたり、取り出し口になる銀紙を全部はがしたりして、怒られました。私が寝てしまい、おんぶしてもらうと父の首筋はタバコのにおいがしました。安心しました。今、夫の吸うタバコのにおいをうっとおしいと感じます。
お父さんもお母さんもハイライトを吸ってた。あんなにキツイ煙草なのにハイライトとはコレ如何に(笑)そう言えば、メインイベント・・とは言うけど、TVでも舞台でもハイライトとは言わなくなったな・・。だから「はいらいと」という五文字の言葉自体が私は懐かしく、夏の青空に浮かぶ入道雲を思い出します。
冬の寒い日、父のたばこを買いにいくとおつりをおだちんとしてくれました。妹と争ってお使いにいったのを覚えています。青いハイライトでした。タバコ屋さんのウィンドウにあきばこでつくったかさがあり、一度お店の人からもらってとてもうれしかったです。もちろんそのかさはハイライトで作られていました。今はそういうかさを見ることはほとんどないのですが、作り方がわかれば一度作ってみたいです。その当時、とってもほしかったんです。
母が若かった頃、フィアンセを交通事故で亡くして、長い間彼の事が忘れられなかったんだけど、彼の匂いを思い出す為に当時たばこを時々口にしていたそうです(金魚吸いだけど)。
以前本家に住んでいた祖父がよくバリカンを持って家に来て縁側で新聞紙を広げて父に散髪してもらっていました。そして散髪が終わると二人とも両切りのいこいをとても美味しそうに吸っていたの憶えています。普段無口な父はその時はよく祖父と世間話をしていたようでした。とても仲がいい父子のようでした。
年末近い大雪の日、祖父が正月の餅を担いで家まで持ってきてくれました。炬燵に入って、たばこで一服。その時の「わかば」のオレンジ色のパッケージを今も覚えています。たばこ屋で「わかば」を見るたび、亡くなった祖父のことを思い出します。
祖母は江戸時代創業の料理屋の一人娘,茶の間の火鉢の前に座り,年代物のキセルにタバコの葉をつめ,おいしそうに一服、その姿は「いきで色っぽくて」子供心に憧れていました。場所がら芸者さんなどの出入りも多く,そんな人たちの相談事にもよくのっていた祖母,芸者さんが座敷に出て行く前の三味線の音と,キセルから火鉢に葉を落とすときの「コン コン」という音 そして流れ来る煙---「たばこ」がぜんぜん苦にならない。むしろ「安らぎ」の時間が流れていたと思っています。。
ぼくが小学校のころ、父が缶ピースを吸っていました。朝寝ぼけまなこで起きていくと、父が、すごくおいしそうにいっぷくつけていました。本当に、おいしそうで、ぼくが、「そんなにおいしいの?」と聞くと、「ああ、世の中で一番安くて、おいしいごちそうだよ。」と言いました。父がたばこを吹かすたびに、ふわーっと煙が幸せそうに上っていくの今でも覚えています。
煙草好きの祖父は1年間の入院中もお守りと称し未開封の愛用煙草をひと箱いつも枕元に置いていた。闘病の甲斐なく亡くなり,その時父の涙を初めて見た。お葬式が終わった時,庭先で独りゆっくりと祖父のお守りの煙草を父が吸っていた。父は煙草を止めて10年以上経っていたのに,あの時の紫煙はどんな味がしたのだろう。
昭和50年代おつかいと言えばたばこ。ささやかなお駄賃がシアワセだった頃。
子供の頃・・・お父さんが吸ってるたばこのニオイが大嫌いでした。それがいつしか自分も吸うようになるとはその時は思いもしませんでした。今でもたばこのニオイは嫌いです。そのため、なるべくニオイのつかない1mgのものを吸っています。たばこのニオイがもっとアロマ的だったりするといいなと思います。そのせいでしょうか?香りにはとっても敏感です。香水やお香が大好きになったのもたばこに由来しているのかもしれませんね。
実家の父は自営業で自宅の隣に小さな工場を経営していました。父と母2人の小さな工場です。父は家庭では1本もたばこを吸いませんでしたが、仕事場ではいつもショートホープをくわえていました。オイルショックの時代に事業を起こして、今では従業員36人の中小企業になんとか仲間入りしてます。工場に行って父のたばこを吸う姿を見るたびに、父ちゃんはがんばって仕事してるんだなぁ。と思いました。
わたしが小さい頃、ノ−トはたばこ屋さんで買っていました。父が吸う銘柄はよく知っていたわたしは、ノ−ト代のおつりを勝手にたばこに使い、父にプレゼントしたのです。当然おこられても良いようなことでしたが、フシギとうれしそうにしてくれました。主人が同じ銘柄を吸う人だったのも何か縁なのかな。
小学校四年生の時の担任の先生は、ピースがとても好きだった。教室でもよく吸っていて、1日に50〜60本は吸っておられた。定年直前のおじいちゃん先生で、他の先生と比べてとても風変わりな方だった。水泳の授業の時には教卓の上にのぼって着替えたり・・・。先生の教卓にはいつもピースがずらっと置いてあった。長い学校生活の中でも、あのクラスが一番楽しい思い出になっている。ピースを見ると先生を思い出し、懐かしさで胸が一杯になるのである。
子供の頃、大人がタバコを吸っているのを見た時に“なんでココアシガレットから煙が出ているんだ???”と本気で思いました。すごく好きな駄菓子に火をつけるなんて、もったいない!と子供心にも腹立たしかったのを今でも記憶しています。そんな私も大人になりタバコを吸うようになって、あの時の事を時々思い出し、ふっと笑ってしまいます。
小学生の頃、歩いていた時に、通り過ぎたおじさんのタバコが、私のブラウスにあたり、穴があいた事があります。それは帰宅してから、母が気付き、なぜか私が怒られました。それ以来、タバコを吸いながら歩く人を見ると、大げさに避けてしまいます。
父は、ある私立大学の教授をしておりましたが、大変なヘビースモーカーでした。一日何本吸っていたのかわかりませんが、書斎に入るとタバコの煙がもうもうとしていました。そんな父がある日突然「タバコをやめるぞ」と言い吸わなくなりました。もう60歳になっていたのにです。 ところが、何か寂しげな感じになり、元気が売り物の父も「先生ご病気ですか?」と学生から聞かれるようになりました。タバコを吸わないメリットよりデメリットの方が大きかったようです。 その内、健康になるはずの父は見る見る弱り、68歳で亡くなりました。今考えると、タバコは父の唯一の楽しみであり、ストレス解消であり、健康の元だったのですね。害でも何でも無かったということです。
次男が、3才頃のこと、乳歯の歯の生え揃った口の中を、見ると。「パパの歯は、」と、私の口の中をのぞいた息子は、「あっ!パパの歯、おこげだー」と。その言葉にもめげずに、いまだに愛煙家ですが。
昔タバコ屋をしていた祖母。マッチを一つおまけにつけてました。タバコ屋のウインドウから身を乗り出して足をぶらぶらしていた幼き自分と、接客する祖母の後姿がおもいだされます。
今は亡き父親へのプレゼントはたばこがらみのものが多かったです。中学生の時の修学旅行のおみやげも灰皿でした。結局20年くらいその灰皿は寝室で使ってくれていました。今もお墓まいりにいくと、たばこに火をつけてお線香と一緒に御供えします。ゆっくり一服してくれていると思っています。
大学の頃、缶ピースを専用のホルダーに入れ粋がっていたっけ。北大の正門前のビートルズという喫茶店で毎日友達とたむろしながら煙草をくゆらし・・、小遣いがたりなくなると教授を麻雀にさそって・・。当時の雀荘は煙草の煙が立ちこめていて、朝まで麻雀をすると全身が煙草の匂い。何だか懐かしくなってきました。そんな自分がいつの間にか人に教える立場になってしまっている。不思議なものです。
正直言ってマナーを含めて、現在のタバコはあまり好きではありません。でも、幼い頃に田舎の祖父が囲炉裏端で一日の農作業を終えた後に吸う煙管のタバコはとても好きでした。(今は祖父も亡くなり、囲炉裏もありません)
雪のちらつく冬の日、大型バイクで拘束ツ−リングの休息時 バイクの真っ赤に灼熱した排気管にタバコを押しつけ火をつけるという小説を読み、自分で試したこと
子供の頃、お父さんに頼まれたおつかいは、いつもたばこでした。「おつりはもらっていいよ。」お父さんの頼むおつかいに私の返事は一発OKです。がっちりした肩・・めがね・・お酒・・たばこ・・お父さんのイメージと言えばそれです。いつの頃からかタバコをやめ、今はもういないけど。たばこと言えば、お父さん。
お父さんがタバコ産業株式会社(現在のJT)につとめていました。たばこをまったく吸わないのにタバコの会社で働いているのを子供心にとても不思議に思っていました。
自分が小学生だった頃、父がタバコの煙を口に貯めておちょぼ口にしたかと思うと片方のほほを人差し指でポンポン叩くとSLの煙のようにドーナツ型の煙が出て面白かった今は年のせいか咳き込むのであの時のようなことはもうできそうに無い・・・
祖父がフィルターのないタバコを吸うとき、「おじいちゃん、たばこ反対だよ」と教えたら、「どっちでもいいんだよ、これは。」と言われて、はじめてフィルターのないタバコを知りました。
私は子供の頃祖母に育てられたのですが、昔居酒屋をやっていた祖母がお客さんが来ない時間にのんびり煙草を吸う姿をよく見かけた記憶があります。よく…といっても店をやめてからは年金暮らしですから質素で、1本のたばこに火をつけ、ひと口、ふた口吸ったらすぐ消します。そうしてフィルターのぎりぎりまで吸います。そんなちびた吸いかけのたばこが灰皿の中に可愛くいつも5〜8本並んでいるのです。ゆっくりとおいしそうに口に含む祖母の姿が懐かしく思い出されます。
子供の時に父に「たばこ買ってきてくれる?数字の7があるやつだけど、星がたくさん書いてないやつだよ!」って言われて買いに行くんだけど、どうしても子供心に「星がいっぱい書いてあるほうがいい♪」と思って言われた通りに買って帰ったことがなかった(笑)当時父はマイルドセブンを吸っていてしかもパッケージがセブンスターに似ているので間違えないように星が無いやつって言ったんだと大人になってから気がつきました。お父さんごめんなさい(笑)
幼い頃祖父のお使いでよく近所の酒屋さんの自動販売機にたばこを買いに行きました。マイルドセブンを頼まれるのですが、間違えてセブンスターを買ってきてしまったことがしばしばありました。3年前祖父は亡くなりましたが祖父の事を思い出すたびにこのたばこのお使いの事を思い出します。
初めてのキスの味がたばこ!ちょっと不良っぽいクラスメートと学校の帰り道でのできごと。我が家では誰もタバコを吸ってなかったので、タバコの味とキスで二度大人になった気がした。
先輩と徹夜の仕事をしたことがあった(社会人になって初めての徹夜の仕事だった)。仕事が終わった時に先輩と吸ったたばこはとってもおいしかった。疲労感の他に、多分、仕事をやったという充実感や達成感もあったのだと思う。
子供の頃、父が私を肩車しながら煙草を吸っていて、私の手に煙草の火が当たって、よく泣いていたのを覚えてます。あまりいい思い出ではないけど、肩車大好きでした。
私が小学1年生の時のことです。父の日のプレゼントを考えていましたが、お小遣いでタバコを1箱買ってあげる事にしました。貯金箱から50円玉と10円玉をたくさん持って、自動販売機に行きました。そして、まず50円玉を入れたら、なぜか表示が100円になったのです。もう1枚50円玉を入れたら、200円になりました。とってもとってもうれしかったです。タバコ(チェリー)を1箱買って、帰ってからかわいい包装紙に包んで、お父さんにあげました。お父さんは「もったいなくて吸えない」と言いながら、次の日には吸ってました。
子供のころ仕事で帰りが遅い父が帰ってくると私の寝顔を見に来てた…その時のタバコのにおいが忘れなれない…
私は一度もタバコを吸った事がありませんが、タバコといえば父です。小学校の時、粘土で何かを作るという授業があり、迷わずに父の日の灰皿を作りました。黄色とマイルドセブンが好きな父なので、黄色で土台を作り、何故か777を三つ書いただけの、シンプルな灰皿。父は7が磨り減っても使ってくれていましたっけ。そんな父も定年を迎え、孫が可愛いくてたまらない様子です。親孝行、もっとできたらいいな。
「おじいちゃん」のタバコはハイライト。「おとうさん」のタバコはマイルドセブン。幼い頃のおつかいはそれから始まりました。近所のタバコ屋さんに行きます。お駄賃は商品台の隅っこに置かれている10円のチロルチョコ。今では溶けるからという理由でチロルチョコも置かれなくなり、切手やハガキや雑誌を一緒に買えてしまう町のタバコ屋さんも少なくなりました。寂しいかぎりです。
子供のころ(たぶん幼稚園時代)に、祖父に「[マイルドセブン]を買ってきてくれぃ」と頼まれたのが、間違えて[セブンスター]を買っていきました。(笑)当時の私に銘柄の違いなどわかるはずもなく、たばこ屋のおばちゃんに「7って書いてあるヤツ」と言ったら、[セブンスター]が出てきたためです。
子供の頃、オヤジにいきなり殴られた。殴られたのはタバコをくわえていたからだ。「子供がタバコをいたずらするな!」といわれ、くわえているタバコをとられ泣き叫ぶ俺に、「ごめん」とオヤジが謝った。俺がくわえていたのは、シガレットチョコだったからだ。俺は当時10歳のガキだった。
昔、まだ小学生だった頃、普段は何も言わない親父だけど、ここぞという時は、びしっと言う。道理にはずれたことをすると、説教がはじまる。そして、こぶしが飛ぶこともある。そんな親父を尊敬しつつも、子供ながらに恐れていた。その威厳ある親父の説教の終焉には、必ず、親父がすることがあった。タバコを吸うこと。気を落ち着かせるためだろうか。子供ながらに、タバコに火がつくと、内心ホッとしたものだ。やっと解放される。自分が親になった今も、親父がタバコを吸う姿を見ると、自分の若かりし頃、そして、親父の若かりし頃を思い出す。
よく父親のたばこを買いに、角のたばこ屋まで行ったものです。「ハイライト1箱ください」と言うと、おばちゃんも心得たものでちゃんとカートンを出してくれました。帰りに転んで擦り傷を作って帰った時は、父が買ったばかりの箱を開けて1本ほぐして、たばこの葉を血止めにつけてくれたのを覚えています。
中学生の頃の話し。囲碁を習い始めて、やっと10級の壁を乗り越えるかと言う頃に、先生に挑戦するが、簡単に負かされてしまう。こっちは必死になっているところに、先生は煙草に火をつけ一服。少し考えたい局面になると決まって煙草が出てくる。紫煙をフーーッと吐いてから打つ。何度となく負かされて悔しい思いをした。また、局後にも煙草をゆっくりと美味しそうに飲んでいた。私も大人になったらと思っていたが、あれから20年が過ぎた今、囲碁は先生を越える事が出来たが、まだ煙草の飲み方はかなわない。
就職して、先輩がタバコを吸っていました。今ほど女性の喫煙が認められていた時代ではありません。「お酒飲んでるときだけよ。」とにっこり笑いながらメントールの細い棒をマイルドセブンに差し込んでフーっと煙を吐いていました。それからしばらく私も悲しいときだけメントール入りのタバコを口にするようになりました。なんだかその先輩が励ましてくれるような気がしたからです。職を転々とし3年前また、その先輩と再会しました。先輩は車の中でもタバコを吸い増えていました。でも、優しさは変わりません。きっと、辛いこと悲しいことをいっぱいいっぱいメントールの煙に変えて来たんだと思います。たばこ、それは生活の句読点であり、人生の句読点でもありますね。
近所にタバコの葉を作っている畑が沢山ありました当時この葉がタバコの原料になると知らなかった私は「牛の餌」だと思ったいました ときにはちぎってうさぎにやったり、葉に絵を書いて遊んだりしていました母からあの時の葉がタバコになると聞いた時は、ショックでした あの当時「たばこ」は触ってもいけない物触っただけで警察に捕まる物だと信じてたのですから今思うと大笑いですがね。
大学2年の体育祭で、ソフトボールの試合に出ました。なぜかファースト守ることになり、試合は順調に進んで7回の相手の攻撃。強烈なサードゴロをサードがよく止めて、好送球。ファーストは間一髪アウトのタイミングだったののみ、なぜか僕はグローブを嵌めていない、右手でボールを取ってしまい、落球。最後までこの走者の走塁が響いてわがチームは負け。皆の目は当然僕に集まったのですが、その視点は右手の人差し指に。なんと骨折してしまい、ソフトボールのように腫れてしまっていたのです。その試合以降、右手の人差し指と中指でタバコが握れなくなった僕は、中指と薬指に間にタバコをはさむようになり、いつしかそれがトレードマークとなり、「キザーボー」と呼ばれていた大学時代でした。
タバコといえば専売公社の女性研究者たちを思い出す。主に生物、化学、薬学系の大学をでた彼女たちとグループで沖縄に行った。とても楽しかった。紫煙をくねらせながらさまざまなことについて話をした。遠い20年前の思い出。今も時々思い出します。
学生時代、記念たばこを一時期集めていました。その頃名古屋に住んでいて、名古屋駅の近くのある所へ行くと、全国で発売された記念たばこを買う事ができたので、一つ残らず全部買っていましたが、金が続かず、中味のたばこを友達に安く売るようになりました。それでもあまりの数の多さに結局ついていけなくて、やめてしまいました。今でもスクラップブックにその頃集めた記念たばこの外紙が貼ってあります。
本の名前は忘れましたが、「禁煙」に成功するまで10年くらいかかっていた頃突然その本に出会いました。ものすごくプラス志向の理論で、簡単に言うと、「20本吸っているあなたがある日、16本吸ったとすると、なんと今日は4度も吸いたい気持ちに打ち勝った・・・」と解釈し、それを連続していると19本。6本、11本、3本、ゼロ、15本・・・と禁煙に成功している日が続き、やがてすわない日が出来てきたのです。
たばこに関して一番印象に残っている事は、母親ですね。昔、5・6歳だったと思いますが、家族でドライブに行く車中で、運転している父親からたばこを一本貰って吸っていた母親の絵が今でも焼きついています。もう20年近く前に離婚しましたが、そのとき吸っていた銘柄のたばこを今でも母親は吸っています。子供の目から見る母親の、また違う一面として印象に残っています。
それは私が5歳の頃でした。けして裕福ではないけれど、笑いの耐えなかった家でした。当時31歳で、自営業を営む私の両親は、共働き。ろくに休む日もなく、毎日遅くまで働いていました。幼い私はいつも姉とともにお留守番の日々でした。保育園の友だちが「日曜日に遊園地に行った」話しが羨ましくて、親にねだったこともあります。年に数回の両親の休みの日。当時の若い両親と幼い私たちは、夕焼けの中を散歩しました。華やかな遊園地ではなかったけれど、両親といられる嬉しさに、私は心躍らせました。秋日和。夏の名残を惜しむ南風の強い日だったと思います。公園のベンチに座り、父を見上げました。すると、暮れ行く空に、父のくわえたタバコの火が”ぽっ”っと色づき、光りました。「お星さまみたいだね」私は言いました。両親が今の私と同じ年齢の時、私は生まれました。結婚もしていない頼りない自分には、若い二人が一生懸命私を守ってきてくれたこと、そして、夕焼け空に咲いた一つの星の想い出は一生忘れることはないでしょう。
私の家は核家族ですが、近くに祖父の家があり、幼い頃は、よく祖父の家へ遊びに行ってました。祖父の家では、たぼこを作っていて、たばこの葉を乾燥させるためにかごに詰めるのを、時々手伝っておりました。たばこの葉にはヤニがあり、詰めていくごとに手がヤニで汚れ、なかなかそのヤニが取れなくて、困ったことがありました。たばこを作っているということもあって、亡くなった曾祖父は煙管を使っていました。あまり、たばこが好きではなかった私でも、煙管を使ってたばこを吸っている曾祖父は粋でかっこいいなと思ったことを覚えています。
大学卒業後、1年余り後のこと、就職先はばらばらとなった仲間約10名と、母校のある渋谷道玄坂であったとき、お互いの現況報告(当然ながら上司の悪口と、会社への経営不満)をしつつ、夜の更けるのも忘れ、終電もなくなり、当時お金で余裕のあるやつもいなかったので、全員、駅前公園で始発列車をまった。缶ビールを飲みつつ、いつしか皆ベンチで眠りに落ちた、夜も明けはじめ、皆目を覚ましたとき、一人の友がタバコ吸いてーと大きな声でいいました。ですが全員でも、タバコは2本しかありませんでした。結局2本を10人で回しのみをした。公園から5分ほどのところには、タバコ屋はあったのですが、誰も買いに行こうと思うものはいませんでした。いっぷくづつ10人で2本のタバコを吸った、あの連帯感を忘れられない。当時のメンバー、他界者1名、音信不通2名、今も仲間6名(皆社会人としての要職にいる。内2名は私の悪ダチとして活躍している)
周囲に何を言われようと全くやめる気がないのが喫煙。そんな私ですが,始めたきっかけは情けない。「たばこを吸っている男性ってかっこいいよね。」と当時つきあっていた彼女のつぶやきを聞いて,初めてたばこを吸ったのが約20年前。遠距離恋愛だったためなかなか会えず,そのうちに,他の男に乗り換えられたのですが,別れ際の一言は,「今度の彼は,スポーツをしていてたばこ吸わないから さわやかなのよ。そこがすてき・・・」この嘘つき。こうなったら俺は死ぬまで吸ってやると涙を流しながら心に誓った20歳の春・・
私がまだ20の頃、自動車教習所に通っていて明日本免という日に とても緊張していたら当時付き合っていた彼が「人は信じさえしたら何だってお守りになるからね。」と ショッポの空き箱に「合格する」と書いて持たせてくれました。ショートホープ。今でも胸のきゅっとする銘柄です。
おじいちゃん家が昔タバコ屋さんでした。おばあちゃんがみかん箱一つからお店を始めて、タバコ、日用雑貨、ジュース等を売るタバコ屋さんになったそうです。1958年のポスターが当時の店の雰囲気を思い出させます。私が幼少の頃は煉炭の回りにおじいちゃんとおばあちゃんが座って店番をしていて、店裏に行くとダンボールにタバコが山積になっていてよく補充を手伝ったものです。手伝いをした後、店のお菓子を一つくれるのが何より楽しみでした。峰というグレーの箱のタバコがとても印象的です。今でもあるのかな?今は個人のタバコ屋さんも自動販売機での販売になってしまって淋しいですね。でも、私がタバコを買う時は小さなガラス窓を開けて「すみませ〜ん、タバコ下さい」というのがやっぱり好きです。
父は愛煙家で、母は嫌煙家でした。私が小学生のある日、父が耳に小さな虫が入ってしまったと言いながら帰宅しました。母は、虫を追い出すには煙草の煙を吹きかけるのが良いとTVで観たといって、吸ったこともない父の煙草に火を付け、父の耳へ煙を吹きかけていました。虫もようやく外にでていき一件落着。母のぎこちなく煙草を持つ手がなんとなく忘れられません。
学生の頃、友人とツーリングに八ケ岳に行った時、台風が勢いを増し、辺りは暗く、荷物も服もビショ濡れになりながらも走っているとバンガローを発見。周りにはコンビニなんてないし、水筒と小さなバーナーだけだったけど、寒さの中でコーヒーを飲み、唯一濡れずにすんだ友人の煙草が最高の御馳走でした。
20歳の夏、自動車学校の先生に恋をしました。淡くてせつない恋・・。先生は父親ほど歳が離れていて、家族があります。プラトニックで純情な思いは『憧れ』のまま、形になることは許されなかったのです。やがて卒業の時を迎え、若い情熱を胸に秘めたまま、私は先生にお世話になったお礼を言いました。明日からはもう顔を見ることも、声を聞くことも出来ないのです。「先生、先生の煙草、ひと箱、私に記念にください」精一杯、胸の動悸を堪えて言いました。先生は何も聞かず、笑ってそれをくれました。あれからどれほどの時が流れたでしょう。時を経て錆びついた缶ケースの中には、ボロボロになった煙草が封を切られないまま、今でも入っています。まだJTに変わる前の古い古い煙草が・・。私の青春のほろ苦い思い出と一緒に・・。
自分でもタバコを吸って早20年が経過しました。影響を受けてタバコを吸い始めた当時の(?笑)ボーイフレンドのご家族はミンナ揃ってヘビースモーカー。既に亡くなっていた彼のお父様の命日には愛飲の「缶ピース」をお供えするのが彼と私の決まり。缶を開けるとたちのぼるいい香り!憧れながら、ピースを吸ってもさまになるのはいつのことだろうと思っていた。あの頃でも探さないと手に入らなかった「缶ピース」とっても懐かしい。今でもあるのかな?
以前アマチュアバンドのスタッフをしていたのですが、まず覚えたのがメンバーが愛用しているタバコの銘柄でした。ステージ直前だと本人が買いに行けないので、よく買いに走ったのを憶えています。
もう30年前のことである。些細な事で父親と口論となり、思いっきり殴られた。頬の痛みと興奮した気持ちを落ち着かせるがために、2階のベランダに出て夜風に吹かれていた。背後に人の気配を感じた。父は「吸うか?」との言葉と一緒に一本のタバコを差し出した。お互いに言葉を交わすことなく、タバコを吸いながら夜空を見ていた。その日を境に、父子の関係から男同士の関係になったような気がずっとしている。年老いた父と美味そうに一服できる時間はそんなに長くはない。
愛煙家である父と、祖父の家に遊びに行ったときのこと。普段は「わかば」を吸っていた祖父であったが、その日は何やらいそいそと一寸した小道具を持ち出してきた。煙草盆である。さらに煙管。父が吸うのとは違う、渋めなパッケージの「わかば」にさえ興味深々だったのに、時代劇のそれしか見たことがない煙管は私の目をひかせるのに十分であった。ある種の儀式の手順を踏むかのようにして火をつけ、ぷっかりと紫煙を吐き出した祖父の姿を眺める私たち親子であった。もういっぷくすべく、火種を手のひらで転がしていたかどうかまでは忘れてしまったが、煙管をくわえた祖父の姿は、あれから二十数年たった今でも脳裏に焼きついている。祖父は今でも達者である。
今から20年程前に初めての出張でアラブのクウエイトに言った時、まだ日本人も余り現地にはおらず、当然日本の新聞などは無く、現代の様に衛星放送もない時代に、仕事にも、車での移動にも、その上なれないアラブ食にも緊張しながら毎日をすごしていた時に、ふと覗いた小さな雑貨店にセブンスターがあった。店のオジサンに聞くと、「東南アジアのタバコ」「中々美味しいよ」と僕が日本人とは思わずに答えたので、「俺の国のタバコだ!」と言ったら、破顔一笑「じゃ、プレゼントしてやろう」と言われ、店のオジサンと一緒に吸ったセブンスターは最高の一服でした。
約20年前のことです。私は当時学生であり、都内のビルの改装工事の現場で作業員のアルバイトをしていました。仕事はかなりハードで、昼休みには食事もろくに喉を通らない状態でした。青白い顔をして座り込んでいると怖そうな顔をした職人の親方が隣に来て「アンチャン、つらいのか。でも、もう少しだ。頑張ろう。」と言って一本のタバコを勧めてくれました。その時の親方のやさしそうな目は忘れられません。煙とともにいろんなことを語り合いました。私は、親方の男としての心意気に大きく感動しました。そして、どちらかというと怖い存在であった職人の人達への見方が大きく変りました。その影響で、その後私は建設会社に就職し、今日にいたっています。
それまでタバコという物は、不良少年のイメージしかなかった私です。正月も過ぎ、成人式を終えた晩、父が珍しく私の部屋に入ってきた。「星でも見ないか」と私をベランダへ誘い出し、しばらくして父は私にタバコを差し出した。初めて吸うタバコにむせかえり、頭はクラクラしていた私ですが、今まで厳しかった父が私を「一人前の男」として見てくれたと思え、大変うれしかったです。あの時の1本のタバコが父との「男と男の絆」を作ってくれた思いがします。その後もたまに、二人でタバコを吸ったものでした。今思うと、とても懐かしい思い出です。
妻のご両親に初めてあいさつに行ったときのこと,お父さんは,見るからに頑固そうな方で,沈黙の時間だけが過ぎていきました。私が,意を決して「娘さんと結婚を前提におつきあいをしたいのですが」と切り出すと,お父さんは「結婚は,まだ早すぎる」と言ったきり,その日はそこで終わりました。当時,私も妻も20歳になったばかりでしたので,親としては,大切な娘との付き合いをそう簡単に認めてくれるはずがありません。それから,何度か足を運んだある日,お父さんに「ちょっといいか」と促され,近くの川辺で妻が幼いころのことを話してくれました。そして,お父さんは「頼むぞ」と私にセブンスターを差し出し,二人で川面を眺めながら,そのタバコをすいました。あれから20年,シャイでちょっと気取ったお父さんは,今も元気にイチゴを作っています…
祖父がなくなった、と連絡が入ったとき、父は電話を切ったあと、静かに一服しました。私と妹はまだ悲しみより、イナカに帰れるのが嬉しくて、はしゃいでいました。母に黒い洋服を着ていけ、といわれ、ダダをこねていたときも、いつもなら雷を落とす父はただ黙って、紫煙をくゆらせていました。なんだか、いつもとは違う父を不思議に思い、「どうしたの?」と父の背中を叩き、ふりかえった瞳には涙がいっぱいたまっていて、私が記憶する限りでは、初めてみた父の涙でした。タバコくさい息で「早くしたくしろ」とぼっそといった父の姿は今でも焼きついています。そして、それがタバコをすう父を見た最後の姿です。
昭和60年代たばこが取り持つ縁もある。
30歳をすぎてから、仕事で長距離のトラックの運転をはじめました。それまではカッコツケで、ひと月に1箱吸うぐらいだったのが 1日1箱位吸うようになりました。一人で夜中じゅう運転し続けるには 缶コーヒーと、タバコは欠かせない必需品でした。眠気をたち、孤独な時間を過ごすには、タバコの害を考える以前の良きパートナーであったことを今更ながら思い出します。おかげで、現在まで無事に生きてこられました。今では一日二箱ぐらいすっています。
職人の父は、仕事中には毎日2箱から3箱は吸うヘビースモーカーでした。だから、工房の壁は、ヤニで黄色くなってしまってました。タバコが切れると、休憩をとりながら、タバコを買いに行く父。この時間が、家と職場が、同じであった父にとっての自由な時間だったようです。パチンコもお正月しかせず、ギャンブルもしない父にとって、タバコは唯一の楽しみと癒しの効果だったのかもしれません。職場と家が離れた時、母は、父にホタル族を命じました。ベランダで寂しく吸う父の背中は、落ち着いていて、逆に私たちがベランダにでて、星を見ながら話を楽しみました。父とタバコは、そんな、懐かしい思い出です。
15年近く前に祖父が病気になり入院生活が半年ほど続きました。祖父はタバコが好きだったのですが病養中なのでもちろん禁煙生活を余儀なくされていました。しかし私は「タバコが吸いたい」とつぶやく祖父の寂しげな顔を見てこっそり一本だけ父のタバコを持って行き祖父にあげました。そのとき見たのが最後の祖父の幸せそうな顔でした。
当時つきあっていた彼がたばこ好きな人でした。だからデート中にもよく「たばこ切れちゃった」「ちょっとたばこ買ってくる」と言っていました。私は彼と少しでも一緒にいたいのと、「よく気のつく子だ」と思われたいのとで、彼の吸っている銘柄のたばこをいつも持ち歩いていたのを覚えています。(私はノンスモーカーでした)まだうら若き、かわいい乙女であった頃のお話です・・・
夫と親しくなるきっかけがタバコでした。当時職場で勤務中禁煙の指示が出て、私が彼のシガレットケースを預かったのですが、返す時に中に「吸いすぎにご注意」と書いたメモを入れておいたのです。それを彼が気に入って。。禁煙!といわれるより健康を気付かった優しい感じがしたそうです。楽しい思い出です。
飛行機の隣の席に座っていたおじさんが、喫煙席なのに私に「タバコを吸ってもよろしいですか?」と一言聞いてくれた。喫煙の習慣のない私にとって、何気ないことでもそんな一言がとてもうれしいく、その時のことは、よく覚えています。
阪神タイガース優勝のとき、記念にジッポーを買った。
宇多田ヒカルじゃないけど、昔の彼とのキスは、たばこの匂いがしました。いやで、たばこをやめるように言ったら、吸ったあとにみかんを食べたり、ガムをかんだりして匂いに気をつけてくれました。
22〜24才の頃、若い時にしか出来ない経験と仕事をしたいと思い、イベントコンパニオンになりました。周りは尻込みする位に綺麗で素敵な女性だらけで、垢抜けないファッションと下手なメークの私は圧倒されるばかり。そんな人達が仕事帰りに濃いピンクの口紅で緑の箱のメンソールのタバコを吸っていた事がとっても格好良く見え、タバコを吸う事を覚えました。それだけでも彼女達に近づける様な気がして・・・。
ある場所で仕事をしていまして、東大博士号のお方に「下賎なタバコ吸ってるね」と言われたとき、その時吸っていたのは「キャメル」ですけどね?・・・一体どこが下賎なのか今だにわかりません、その東大卒のお方は「わかば」吸っていたつーのも付け加えておきます(笑い)。
私は東京に住んでいて、夏休みを毎年福島の親戚の家で過ごしていました。その時に出会ったイトコの友達を好きになったのですが、その彼は私と9つ違いの20でした。とてもオマセだった私ですが9つの年の差はどうにもならず、夏休みが終わる直前に”何か思い出が欲しい”と思い、彼が吸っていたタバコの吸殻をたった一本、ポケットに入れて持ち帰りました。未だにとってありますが、こんな小さな物でも、いまも思い出がイッパイです。
私がまだ小さい頃、よく父さんとじいちゃんのたばこを買いに行かされました。近所の歩いて5分ぐらい、「たばこ」と「塩」の看板がある小さなタバコ屋さん。銘柄ははっきり覚えてませんが、父さんが白い箱のやつ。じいちゃんは緑。じいちゃんが煙草を吸う時はいつもパイプを使ってました。私が怪我をすると「煙草の葉を傷口に貼っとけばすぐ治る!」って貼られました。すごくしみて痛かった。どこに行く時も煙草を離さなかったじいちゃん。煙がくさくて嫌で嫌で「一生煙草なんかすうものか!」と思った私もいまじゃいっぱしの喫煙者です。私が17歳の時にじいちゃんは亡くなりましが、何かをしてあげたくて、バイトで貯めたお金で「わかば」を1カートン棺に一緒に入れてもらいました。
仕事で長期にイタリアにいた頃の話しですが、成田空港で買いだめしてきたお気に入りの煙草をBARで吸っていたら、イタリア人に”一本吸わせてくれ”と言われたのであげたら、ワインを一杯御馳走してくれました。翌日もBARで一緒になり、滞在中かなり仲良くなりました。
今から10年前、かみさんと約束し、ノートパソコンを買うために、5年間禁煙しました。煙草を1日2箱吸っていましたが、5年分でちょうどノートパソコン1台分になり、5年間だけ禁煙しました。ノートパソコンのスケジュール管理で、5年間を管理し、5年たったらまた吸い始めました。次に車を買うために禁煙しようとしましたが、今回はかみさんと契約が成立せずに禁煙する事を辞めました。今は、ノートパソコンは3年に1回程度買い換えていますが、煙草を取引材料にはしていません。煙草が取引材料になるのならば何回禁煙しても構わないと思っています。ちなみに当時はセブンスターを吸っていたので、1箱200円だったと思います。私が煙草を吸い始めた時には、セブンスターが80円だったと思います。ずいぶんと高くなったものですね。
主人がヘビースモーカーで誕生日のプレゼントにお金が無くてマイルドセブンを一つだけきれいにラッピングして送ったことがあります第1子がお腹にいるときで胎児への影響の事もありましたがお金が本当に無く節煙していた時で毎日1本づつ大切に吸ってくれてました。
あれは遥かうん年前の学生時代。貧乏旅行で南米を旅していました。ブラジルからアルゼンチンへの国境越え。実は、アルゼンチンでとった短期ビザが、夜中になって切れていたのです。パスポートを見せながら気付かないでくれ、とどきどきしていたのですが、ふと、係官が私の胸元のポケットの日本たばこに興味を。「1本いります?」で和やかになり、荷物チェックもほとんどなしに、無事に通過。その後に一人で吸った一服は、たばこに感謝!でした。
学生時代「まだ稼ぎも無いのにたばこなんて吸いやがって」と親父の前で堂々と吸えなかったあの頃、就職して何日か経ったまだちょっと肌寒い4月終わりごろの事だった。その夜たまたま買い置きが無かったので親父のタバコを一本貰おうと怖いながらも口に出した。無口な親父は黙って一箱”ポン”とくれた。おなじ銘柄を吸っていたにもかかわらずその一本一服が違う味に思えた。何か吹っ切れたような苦くてそしてさわやかな複雑な一時だった。
私はいつも親の顔色を伺うような子供で、親がいやがる事はした事がありませんでした。たとえば夏に肩がでたサンドレスを着る事、マニキュアをつける事、お酒を飲む事。そんな私が22の夏に煙草と出会ったのです。もちろん親には内緒。吸う時はいつも外へ出ていました。それが、おかしいと感じるようになったのは、24歳の時。成人である私は私の意志通りに行動する権利があるんだ。大げさだけど、そんな風に意気込んで、父と待ち合わせていた喫茶店に行くと、おもむろにチェリーを取り出し、いっぷくしたのです。それからは想像を絶する程怒鳴られました。でも、私はやめませんでした。意地ではなく、それが私にとっては必要なものだったからです。それを分かってもらえたのは、私が自立してからしばらくしてからでした。
会社に入りやっと一人前の仕事を与えられたと思ったら大きなミス。部長に会議室に呼ばれこっぴどくしかられ一段落。タバコを吸わない部長が「一本くれ。」と私の胸ポケットからおもむろにタバコを取り出し口へ。あわててライターを差し出す私。煙にむせながら「これから頑張れ」と一言。信頼に溢れた空気が流れた。
いまから十数年前。建設現場で働き出したとき、現場監督は一言も口を利いてくれなかった。来る日も来る日も、監督は一言も話してくれることはなかった。自分が未熟なのはわかっていたが、そんな現場監督の態度に内心ひどい憤りを感じていた。「この現場が終わったら、仕事を変えよう」そう思いながら施工日程をこなしていく。やがてそこの現場の仕事を終え、辞めるつもりでいたが、撤収作業を終えプレハブに戻ると、現場監督がたばこを差し出し、「お疲れ様、よくがんばったな。」そのあと一本だけたばこを吸い、それから数年間、その現場監督のもとで仕事をした。あの時、現場監督に差し出され、一服したときの気持ちはいまも忘れずに自分の中で生きている。
敗戦が濃くなっていたときです。
学生動員されていた昭和19年、航空機の部品製造に学徒動員にいき、事故発生。防空壕の中に入り、眠気を覚まし事故防止にするために、こっそり喫煙したことを思い出す。